兄の子どもたち




週末、兄夫婦の結婚記念日ということで、1年生の甥っ子と、年少さんの姪っ子を、「じーじ」と「ばーば」がいるこの家でお泊り預かりすることになりました。

私は「子ども」って「めちゃめちゃ好き」な方ではありません。

よく、子どもが大好きでどんな子とも楽しく遊べる大人の女性を見かけますが、子どもといえども一人のヒトですから、合う人・合わない人がいて当然だと思うのに、子どもはみんな大好き!って人は、すごいなぁと、いつも感心します。




甥のハーくんは、もっと小さい頃は無口で人見知りで心配するぐらいおとなしかった。でも、幼稚園・小学校に上がってゆくと共に、一番のお喋りになって、今ではハーくんひとりいるだけで賑やかで、うるさいぐらいに元気がある。

遊ぼうと言って来て「一回だけだよ」という大人の言葉に承諾しておきながら、何回もねだり、ダダをこねたり、時には癇癪を起こすのは、ハーくんも同じく。

それだけなら「まぁ子どもだしネ」とこちらが折れる気にもなる。

ところがハーくんは、近ごろ言葉使いが悪い。

例えば、トランプをしたいのに机が散らかっていると、それが自分が広げた折り紙の山であろうと「はやくかたづけやっ」「はやくっ」「きいてるの?!」「はよかたづけってゆってるやろ!ばーば!」

これは、ハーくん自身の言葉ではなく、大人や友だちなどの、人から聞いた言葉を真似して言っているに過ぎなく、それが習慣化されているように私は思う。



これが自分の子どもだったら。

自分がトランプをしたいんだったら、自分で遊んだ折り紙は自分で片付けるか、人にお願いするときは、どんなふうに言えばしてもらえるかもっと考えるように、わかりやすく説明して、言葉遣いの悪さを叱るんだけど。

姉の子にはそうしてきたけれど、やはり兄嫁に気を使ってしまうのか、そこまで出来ない。

兄嫁には兄嫁なりのしつけがあるのだろうし、それを私が勝手に変えるわけにはいけないよなって思っちゃうし、単に、大泣きされて母を困らせると悪いかなとか。



言葉遣いの悪さが度々出てくるのを堪えて過ごしているところへ問題発生。

トイプードルのココくんを持ち上げて走り回り、あげく、ハウスの中に追いやって、ヴィオラダガンバ(弦楽器)の弓で突いているのを発見した瞬間、我慢の堰が外れた私は、大声を出してしまった。

叔母である私を「優しいナナちゃん」と思っているハーくんは、びっくりしつつも
「やってないし」と言い続け、笑って誤魔化している。

その態度にも腹が立ったけれど、ひとつ悪いことをしたときに、指摘点を2つ3つと重ねるのは良くない。

一緒になって笑っていた妹にも「アーちゃんもダメよ」って睨みをきかせると、
「はーい」って、きおつけの姿勢で、おりこうさん顔でニコニコしている。

とにかく、犬を追詰めて長い棒で突くなんてことはいけないし、その道具に楽器を使うのもいけない(って2つになっちゃってるけど)って内容の話を私は言ったんだけど、怒って口調をきつくしてしまったので、内容を理解したというよりも「怒らせてはいけない」ってことの方が記憶されたと思う。

子どもを叱るって難しいな。



その後、二人はぴったりとおとなしくなって、居間のテーブルの下に隠れてた。

どうやら大人のご機嫌を、耳をそばだてて窺っている様子。ハーくんの耳は、お菓子の袋の音を察知するココくんのように、大人の小声を聞き逃さない。

そういうのって、かわいそうだなと思うし、おそろしいとも思う。

だから、こちらは怒っているのではないって雰囲気を私が声に出していると、しばらくしてハーくんの幼い緊張は解けて、普段通りのコミュニケーションが戻った。



子どもたちを迎えに来た兄と一緒に、みんなで夕飯を食べているとき、
「ハーはいっつもお母さんの顔色を窺ってビクビクしてる」と兄が言っていた。

あぁ、本物のお母さんでも、むつかしいんだな。子育てって、毎日のことだものね。

子どもだけじゃなくって、大人同士でも、むつかしいもの。

何が正しくて何が間違ってるかなんて、この世の中には存在しないはずなのに
って歌にあるとおりに。



健康で産まれて元気でいてくれたら、それだけで有り難い。

未だ母になっていない私は純粋に思う。

でも、それだけじゃ満足しないってところに、人の生命力を感じます。



2014年9月22日 記



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