2月17日:抗がん剤治療


右の二の腕から心臓近くまでカテーテルを入れました。

そこから食べられない分の栄養や水分を点滴で補給し、抗がん剤もカテーテルから投与しています。





内出血


このカテーテルを入れた直後、父の手首近くの血管がみるみる膨れたので、看護師さんにその膨れた部分の上を暫く押さえて血を止めておくおくよう言われました。

内出血である。血小板が少なく血が止まらないとはこういうことなのだ。

(カテーテルを入れたのは治療当日ではなく、数日前だったかもしれない)





抗がん剤治療開始


いよいよ抗がん剤治療1回目。4つの点滴袋と生理食塩水の大きな袋。それぞれ落とす順番と時間が決められていて、1番目は何分、2番目は何分、という具合に点滴を入れていきます。

薬の内容は、デキサート・ベルケイド・エンドキサンですが、17日に貰った薬暦情報を見ると、デキサートは12日の段階から既に注射投与されていたようです。

投与は、1日目・4日目・8日目・11日目と計4回にわけて行われました。

1回目と3回目の薬量が多いため、副作用もきつくなる。常に吐き気があり食欲がなく、甘味も塩味も苦く感じる。水やお茶さえも飲めない、食べられないので嘔吐もできない。強い下痢、全身の倦怠感、周囲が臭く感じる。これは私から見た父の副作用だけれど、本人はもっと様々なことを感じているのだろう。


検査の正式な結果


目をパッチリと開けて前を見据え、苦いへの字口になり、じっとし耐えている父に対して、私たちは掛ける言葉も無い。

副作用が予想していたよりも酷い物なので、本当は多発性骨髄腫ではなく別の病気で薬が合っていないのでは?なんて安易な危惧もしましたが、正式な検査の結果は間違いなく多発性骨髄腫IgA型(Multiple myeloma IgA)でした。






気分転換に


気分転換になるかなと思い、父に渡した横軸の真新しいノート。

そこに父が自分から何か記すことはなく、付添っている母が父に宛てた言葉の他に、孫が描いた絵。それから見舞いに来た孫たちと描いた絵しりとり。

絵しりとりには父も参加しているけれど、その絵はグロテスクで支離滅裂。若い頃に絵を描いていたので奇をてらっているだけかもしれない。

薬の副作用のせいかもしれないと密かに私は思う。でも面白い。


チョウ

ワッフル


もっと詳細に病状のことを記そうと思っていたのだけれど、抗がん剤が始まってからはあっというまに日が過ぎていったようで、思い出せない。父が入院している間は、携帯電話を肌身離さず持ち歩いていた。

緊急連絡先のひとつに私の番号を伝えていたから。家電話は調子悪く、子機が使えず出られない場合があり、母は携帯電話をとりそこねることが多く、且つ睡眠薬で眠ることがあるので夜中だと気付かない可能性があるから。





5回目の抗がん剤投与


3月3日。5回目の抗がん剤投与がプラスされて、また一段と調子悪そうな父。

母は父のそんな様子を見て「このまま死ぬのではないか」と思い辛くなって、夕方まで付き添えずに早く帰宅してくることが増える。ふつう逆じゃないの?!って私は思うのだが、それが母の性格なのだからしかたない。

相変わらず食欲が薄く、倦怠感が多く、自分の中から嫌なにおいがして気持ち悪いと言う。でも、私が深清寿司の穴子握りと海老箱とバッテラを持っていくと、合わせて4貫ほど食べてくれた。父は優しい。深清はおいしい。


退院の期待と不安


そろそろ入院から1ヵ月が経とうとする頃、退院のススメが始まる。

そのために、歩行器を使ったリハビリが始まる。何でも、国の政策から在宅介護をすすめる方針になっているとかいないとか。聞いた話では、1ヵ月を過ぎると保険の点数が上がらなくなるから、一日でも退院させて再入院させると点数がゼロからの勘定になり病院が儲かるのだそう。

これらはすべて国の都合、病院の都合なのだから、等しく患者の都合ももちろん通すことができる。だけど、ずっと入院しているより、一日でもいいから帰りたい。それが患者の心情だろう。

家族としては、帰宅して夜中に何か起こったらどうしよう?!とか不安ばかりが募るけれど、本人にとっても良く、病院にとっても都合良いなら、ウィンウィンですよね。


介護保険の申請


3月6日。介護保険の面接を病室で受けました。

結果は当分先になりそうです。





2015年3月17日火曜日 記





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