2月12日:検査と治療方針


朝、ネットで『血液のガン 背中が痛い 鼻血』などをキーワードに調べていた私は、多発性骨髄腫という病気の可能性が高そうだということを知ります。

難知性で平均余命は2~3年。などの簡単な知識を得ました。

「看護師さんたちの親切すぎる振る舞いが怪しいよねー」と、母と冗談交じりに頷き合いましたが、もちろんそうじゃないことを願っていたのです。





検査


午前中に検査をかけまわった後、主治医となる先生が挨拶に来られました。血液内科の経験もある呼吸器内科の先生です。

病態の説明を、父と一緒に此処で説明するか、先に母と私だけが別室で検査結果のモニターを見ながら説明を聞くか、どちらにしますかと私たちに問われました。

結果画像を見たかったこともあり、内心は万一のことも考えて、別室で説明を聞くことにします。





検査の結果


「多発性骨髄腫。しかも肺炎を起こしていて、救急車で運ばれたときには無かった肺の水がかなりの速度で増えている。2日でこの量なので、覚悟しておいてください。」

「肋骨が数本折れて、背骨にたくさんのヒビが入っています。」

「また、病気とは別ですが肺が溶けてたくさん穴が開いています」(これは長年に渡るヘビースモークが要因とのこと)

「抗がん剤治療は診断結果が出るまで実施できません。検査結果は約一週間後です。その前に先ずは肺炎を抑えるためステロイドを使います」


ステージ


先生のお話を聞いている間、私も母も、あまりの突然のことなので、どうしていいのかわからず、涙を堪えるのに必死でした。

私が「ステージ1・2・3のどれになりますか?」と質問をすると、「そんなレベルじゃありません、もう末期です」と。

「それじゃあ余命は半年とか‥(持ちますか?)」と訊ねようとする私の言葉を遮って、「とんでもない!今日、明日かもしれません」と。


延命の選択


最終的に昏睡状態に入ったとき、延命しますか?眠らせますか?と訊かれ、母も私も迷わず眠りを選びました。希望ある人の延命とは違って、無理矢理延命することは不要だという気持ちは、母も私も揃って明確だったのです。

母は昔、幼い甥っ子が延命で植物状態の末に無くなったのを見ているからで、私は愛犬が強心剤で最期にとても苦しんだ壮絶な姿を見ているからです。





治療方針


治療方針は『とにかく痛みを和らげつつ、肺炎の様子をみながら、肺炎が治まれば抗がん剤治療を始める』ということになり、痛み止めには麻薬を使うことになりました。

本人への余命宣告についてどうするかと主治医から尋ねられ、母も私も「絶対知りたいタイプ」なので、本人に伝えたいと思っていました。

しかし先生は「男性は結構弱い人が多くて、宣告されると落ち込んで無気力になってしまう場合が多い」とアドバイスを下さったので、余命に関しては保留にして伝えず、本人には病名と骨折・肺炎等の今の状態だけを伝えることにしました。

父は主治医から病状を聞かされましたが、痛みと薬とで朦朧として、話が半分もわからなかったと後になって言っています。

母は面会時間ギリギリまで父と過ごすことにし、同居の祖母が気掛かりな私は先に家に帰りました。


闘病生活の始まり


この日から、私と母は「お昼前に病院へ行って、昼食が終わると私は帰って家のことをし、母は夕方まで父と過ごし、暗くなるとバスで帰って来る」という生活スタイルになっています。

私の実家では、父と母、父方の祖母(94歳)、夫と私、トイプードルのココが住んでいて、来る3月14日には、認知症になった一人暮らしの母方の祖母(88歳)が越してくる予定です。

二人の祖母には余命は伝えず、病名と、1ヵ月以上入院になることだけを伝えることにしようと、母と話し合いました。

 死というものが突然身近になり、夫も私もこの日はなかなか眠れず、 父や病気や死や未来や子について、色々と話し合いました。





2015年3月15日日曜日 記





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