5月7日。病院から電話があり、目が離せないので来てほしいとのこと。
母は連休明けで役所関係の手続きが溜まっていたので、私が駆けつける。
父の体には、栄養剤(ソルデム)点滴、酸素(2L)、心電図、あと、ベッドから離れるとナースコールが鳴るようにパジャマに線がクリップされている。
3つ貼られている心電図パッチシールのひとつは、父が嫌がって外したのか、勝手に取れたのか、ベットシーツの上に貼り付いてた。
2分横になっていたかと思うと、起き上がり10分程ボーっとして、また横になり1分寝たかと思うと、また起き上がるの繰り返し。
酸素の鼻吸入器がイヤなようで、付けても外すを何十回と繰り返す。室内にレントゲンの機械が入り、私と隣ベットの患者さんとそのお母様は退席し、レントゲン撮影。
昼食のメニューは栄養士さんによる献立の流動食。スプーンを握る力が無く、持とうとしてもスルッスルッと滑り落ちるし、そもそもスプーンの場所すら見えていない。
私がスプーンを口に持っていき「アーン」と言うと、なんとか食べられる。一口食べては座ったまま眠る。やっと7口程食べると直ぐ横になってしまい、昼食終了。
お茶にもとろみをつけてくれているので、昼の薬もなんとか無事むせずに飲めた。
役所の用事を済ませた母が来ると、ちょうど先生が来られて、母に話があるという。その間は、私が父に付添っている。
戻って来た母は小声で「おばあちゃん、また預かってもらわないと‥」と呟く。
退室して詳しい話を母から聞きたかったけれど、どちらかが付添っていなければいけないので、私と母の二人が同時に席を外すことはできないし、父の前なので先生の言葉を母から詳しく聞くことはできなかった。
心臓に来ているらしいこと。カテーテルをまた入れること。だけを聞いた。
私が帰ろうとすると、一緒に帰りたいのか、見送ろうとしてくれているのか、また立ち上がろうとするので、母がなだめて抑える。
抑えられて、父が一瞬眠った隙に、私はそっと病室を出る。
意識障害が進んでいる。肺も悪い。心臓も悪い。尿が出ない。もうだめかもしれない。
帰りの運転中、涙が止まらない。死は悪いことじゃないけれど、本人がまだ生きたいと思っていることがわかるから私は哀しいのだ。
夜、もう一度病院へ行き、相変わらずの父の様子を見る。私が来たこと、わかっていないみたい。
午後には伯母(父の姉)が来たそうだけれど、父は誰が来ているのか判らなかったらしい。今までこの伯母だけが、何度も父に会いに来てくれている。
担当の看護師さんは母を気遣い、後は付き添っていて下さるとのこと。母と共に私は帰った。
先生の話では、肺炎が見つかった5月4日よりも、肺の曇りが酷く真っ白になっているそうだ。抗生物質等の薬が効いていない。
緩和ケアの話が先生の口から出たが、母が断ると、先生も「本人が頑張っているから、まだ治療を続けましょう」と。
尿が出ないので、腎臓にきているかもしれない。ということだったが、その後、管を通すと尿が出たので、腎臓じゃないかもしれないそう。
私の目にも母の目にも、その時が迫っているように見えているのに、2~3日は大丈夫と先生は仰った。
救急車で初めて運ばれ、多発性骨髄腫の末期で肺炎になっていることが判った時の父は、それほど悪くはないように見えた。なのに今日明日と言われたことを思い出す。
今はもう、ほとんど生きていられないような状態なのに、まだ大丈夫だなんて、身体の機能って、素人には分からないことだらけ。
でも、今は未だ、父本人の前では、笑って冗談を言えています。
2015年5月9日土曜日 記
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多発性骨髄腫