5月12日:最後の贈り物


5月12日。何事も無く朝が来て、母は身支度を整えるために帰宅。



午前10時過ぎ、私は母と二人で病院へ行き、兄と交代。

父は、呼びかけても反応無く、眠っていて、手を握り返す力も無い様子。

父とはフナ釣り話で仲良くなった夜勤の看護師さんが、仕事上がりに寄ってくれて、父のために描いた魚の絵を贈ってくれた。



「明日は私お休みだから、明後日また釣りの話しましようね」と、意識の無い父に普通に喋りかけている看護師さんの姿を見て、私は尊敬の念を抱く。

もうひとり懇意にしている昼の看護師さんがいる。

とても実直で、母や私の些細な疑問にも、時間を気にせずいつも丁寧に説明して下さり、母も私も心から信頼を寄せている。

今日の担当がこの看護師さんで良かった。父は運が良い。





午後、父の宗教の人が二人お見舞いに来て、父の前で、母と葬儀についての相談している。暫くして、兄嫁のご両親とお姉さんが見舞いに来たので、宗教の人達は帰って行った。

母と義母とは、二人で父の病状などをお喋りして、私とお姉さんは、とまらない兄義父のお話に耳を傾けた。

兄義父のお話は、ご自身が病気になってからのあれこれの繰り返し。失礼にならないよう、私は熱心に耳を傾け、父が一番の重病人であることをすっかり忘れていたのです。

兄嫁のご家族が退室し、母がエレベーターまでお見送りに行ったので、ホッとして「賑やかだったねー」と言いながら父の顔を見ると、酸素マスクから溢れるほど鼻血を流し、汗も顔からダラダラ流れている。

びっくりして私は母を呼び戻し、看護師さんを呼びました。

息は大きく大きく呼吸し、苦しそうにしています。

この苦しい状態を見ていられないという理由で、母は主治医に睡眠薬をお願いし、私も同意しました。

最初はごく少量から始め、容態を見て、徐々に増やしてゆく方向に定まると、カテーテルに繋がっている点滴の機械に注射器がセットされ、睡眠薬の投与が始まる。






呼吸は徐々に落ち着いてきていますが、鼻血は流れっぱなしです。鼻血が逆流して咽喉を詰まらせないよう、看護師さんが父を横向きに寝かしてくれ、体内の圧迫が偏らないよう、頃合を見て、反対の横向きに変えてくれる。

流れ続ける鼻血が口に入らないよう、母と私は酸素マスクにティッシュを挟んで血を受け止め、すぐに真っ赤になるティッシュを何度も取り替える。

既に抗がん剤レブラミドが入っている父の血を、素手で触るのは危険なので、病室に備え付けの手袋を、ティッシュを変える度に着けては捨てた。

午後4時過ぎに戻ると言っていた兄に電話で「できるだけ早く来て」と伝える。

3人兄妹の内の真ん中、私の姉は、事情があり直ぐに来る事が出来ない。だけど「一昨日の日曜日に、そのつもりで父と会ったから大丈夫」と電話の姉は言います。

私よりも父のことが好きなはずの姉の心中を察すると、姉のぶんまでしっかり最期を受け止めようと私は思う。






午後4時前、兄夫婦とその子ども二人が到着し、今朝の父と明らかに違うことを確認する。

みんな、ただ見守ることしかできない。外は強い雨が降っている。

家にいる祖母二人の夕食を、私が一度帰って支度するか、夫が仕事帰りにお弁当を買って、祖母たちに渡してから病院へ来るか。

夫は5時に仕事を終える予定だけれど、大雨の中、バイク通勤の夫がお弁当を買って帰るのは難しい。

やっぱり私が一度帰るか‥そう考えていると、兄嫁が「子どもがいるから私たちはもう帰る。その時におばあちゃん達にお弁当買って渡しておくよ」と申し出てくれた。

兄嫁は父祖母のことが大の苦手なのに。本当にありがたい救いの手。






午後6時前、夫が到着。

父は鼻血を流し、呼吸は大きいながらも、眠り続けている。

夜が迫っている。今夜も母と兄が徹夜で此処に泊まるのか。

昨夜も殆ど眠っていない母の体力は限界なのではないか。

私は祖母たちのために、夜には帰らないといけない。

父はどうなるのだろう。

先生が様子を見に来たので「この状態はどれぐらい続くのでしょうか」と私が訊ねると、「わかりません。心臓が強い人は1週間続く人も、もちろんいます」と仰った。

励まされたような、途方にくれるような言葉だった。1週間となると、今週いっぱい有給で休みをとった兄は、どうすれば?

頭の中がこんぐらがって、とりあえず、無くなりかけているティッシュを買いに、私は夫と共に売店へ向かいました。ついでに夕食をとろうかと食堂を覗いたけれど、もう閉まっています。

ボックスティッシュ2つと、ハーゲンダッツのアイスクリームを売店で買い、のんびりと病室に戻ることに。






病室のある5階でエスカレーターの扉が開き、歩み出すとすぐに、父の病室へ担当じゃない看護師さんが入っていくのが見えた。

なんだろう?と思って、小走りで向かい、扉を開けると、心電図のモニターアラームが鳴っていて、室内が慌ただしい。

さっきまで椅子で仮眠していた兄も起きている。

母に訊ねると、「わからない 突然ピッピ鳴り出して‥」と言ってる間にも、心電音が停止し、みんなびっくりしてワーワー騒ぐと、また心音が戻ってきて、父は穏やかな様子だけれど、それからの私たちは、もうハチャメチャ。

お父さーん もう頑張らなくていいよー

お父さん ありがとう

パパ 愛してる

お父さーん 大好きー

おばあちゃんたちのことは心配ないからねー

いってらっしゃいー

母、兄、夫、私の四人は、思いつく限りの言葉を笑顔で掛けまくる。

看護師さんが主治医を呼びに行き、部屋が家族だけになった隙に「お母さん!キスキス!」と私が言うと、こんな状況でも照れながら、母は父の額にキスをして、みんな大喜び!

「お父さん、最高のお父さんだよー!」と言った私の言葉をきっかけに(←母曰く)、父はスッと穏やかに目を開けて(見開いた目じゃなく、とっても普通な感じで)、酸素マスクの下の口を、ニコーっと笑顔に開いたので、「笑った!」「笑ってる!」と拍手喝采!

そしてそのあと、父は目を閉じた。

これが父の最期。

My father of Multiple Myeloma died after a smiling was shown.

まったく苦しみを感じさせない穏やかな死。






主治医が病室にトトトと駆け込んできて直立し、腕時計を見ると「えー‥‥5月12日、午後6時59分。ご臨終です」と言った。

私は思わず「コントみたい」と心の中で突っ込みを入れて笑う。それからも、私はテンション上がりっぱなし。

私は、人間の死に目に初めて立ち会ったのだけれど、こんなにも哀しくなく、笑いが込み上げてくる死は、聞いたことが無い。

「いやーお父さん、いっちゃったねー」とか、平気で言えてる。

母も、泣きながら笑っている。

兄も、首をかしげながら笑っている。

夫も、「感動したー」と言って笑顔。

そんな家族を見て、看護師さんたちも笑顔。

父の遺体が病院を去るとき、主治医さんに「すっごく良い最期でした!ありがとうございました!」と言うと、「バッチリだったでしょ」と、私と同じノリで言って下さったのでホッとした。

多発性骨髄腫という病気はまだまだ医学が追いついていない病気だけれども、父の主治医が若いイケイケの先生で良かった。

私は、正直なところ、父の臨終に絶対に立ち会いたいとは思っていなかった。最期のときに母さえ傍にいれば、それでメデタシと思っていた。でも立ち会えて良かった。嬉しい。しあわせ。






巡り会いは、宝物。この宝物が何であるかを、私は言葉にできない。

言えることは、父の最期の瞬間は、私を生んでくれたことの次に、父が与えてくれた最高の贈り物だということ。

この経験は、これからの私を変えてゆくだろう。

今ここにいない家族みんなに感謝。

私たちをここにいさせてくれて、ありがとう。

お父さん、笑顔の大切さを教えてくれて、ありがとう。





いやいやいや、もちろんこの幸福なエンドロールは、父の物語。

生きている私たちには、まだまだたくさんの苦難が・・。そんなすべてから抜け出した「ヤッホーイ!」の笑顔だったのかも。

だったらいいけど。本当は、お父さん、早くご隠居になる日を夢見ていたよね。哀しい想いは五月の雨のように降ってきて、ほんと泣けちゃう。

多発性骨髄腫が発覚してから3ヵ月。お父さん、お疲れ様でした。

生きてるうちに、元気なうちに、やりたいコトやって行こう☆





2015年5月21日木曜日 記





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